東京懐かし写真と洋食店のシンクロニシティ
ある日、新宿の大型書店で何気なく惹かれ手にとった1冊の新書サイズの写真集。
そこには戦後間もないころからの東京の街並みや、そこで生活する人々の息遣いが聞こえてきそうな写真が。思い出話を交えたコラムも軽妙で撮影当時の空気感を存分に味わえる。
著者である写真家・秋山武雄さんのプロフィールを見ると、洋食店「一新亭」を営むかたわら、15歳の頃から趣味で都内を撮影し続けているそう。
なんとなく頭の片隅に記憶された「一新亭」というお店の名前。
ほどなく別のタイミングで出会うことになるとは……。
私は仕事で使う包材などを買い出しに時々浅草橋を訪れることがあります。
ランチを食べるお店を探して千貫神輿で有名な鳥越神社の近くを歩いていると「一新亭」と書かれた看板が……。
どこかで見たような名前と思ったら、先日購入した本の著者が営んでいるお店じゃないですか。
短期間のうちに予期せぬ形で本と洋食店が目の前に現れたので、なんとなく運命的なものを感じ、お店の暖簾をくぐることにしました。
洋食屋の人気メニュー3品を1皿に
▲ひときわ目をひく三色ライスの看板
▲三色ライス (1,200円)
外の看板を見た時から気になっていた「三色ライス」を迷わず注文。
カレー、ハヤシ、オムライスという洋食屋さんの人気メニューをまとめて一皿にというのがたまりません。
ひと口目はカレーから。あっ! コレ小麦粉を炒めた懐かしいやつ!
久しぶりに味わうけど、マイルドな辛さのこのタイプもいいなぁ。
ふた口目はハヤシライス。独特な酸味を感じるデミグラスソースの濃厚な味わい。
他にはない癖になりそうな味ですね。
さん口目は玉ねぎと鶏肉たっぷりのケチャップライスを薄焼きたまごで包んだオムライス。
これまた懐かしい味で子供に戻った気分。異なる3つの味のトライアングルでどんどん食べて完食!
それぞれがなかなかの量なのですべて食べるとかなりの満腹度。
ちょうどランチタイムが終了するタイミングだったので、取材の申し込みをしてみることに。すると、「雑誌かインターネットの記事みたいなものでしたらいいですよ。テレビは最近はお断りしてるんです」とのこと。
理由を聞くと、以前軽い気持ちでテレビ取材を引き受けたら、放送の途中から電話が鳴りっぱなしになり、翌日から半月くらいはずっと行列ができてしまったそう。
席が少ない小さなお店なので、お昼時に地元のお客さんが入れなくなるのは避けたいということで、現在は影響が大きすぎるテレビ取材はお断りしているらしい。
日を改めて、お店のことや写真家としての活動についてお伺いすることに。
祖父の代から浅草橋で創業113年
▲店主の秋山武雄さんと奥様の洋子さん
──先日はありがとうございました。三色ライスおいしかったです! まずはお店の成り立ちから教えていただけますか?
秋山武雄さん(以下・敬称略):開業したのは明治38~39年くらいですかね。祖父の代に開業しまして私で3代目です。当時はまあ、どういうお店だったかわかりませんけど鳥越神社の真ん前でお店を開いていたそうです。
──当時はまだ洋食屋さんは多くなかった?
秋山:ええ、祖父はもともと栃木の出の人なんですけど、地元でくすぶっていてもと思って上京したそうです。その後、職業を転々として最終的には欧州航路の船でコックになったそうです。で、その時の経験を生かして、陸にあがってからこの洋食屋を始めたと聞いています。
──初代のおじいさんはなかなか破天荒な方っぽいですね。
秋山:ウチの父親は昭和37年に死んだんです。だから、祖父の話の細かいことはあまり聞いていないんですよね。おおまかに欧州航路のコックだった、外国語が堪能だった……くらいでね。船の舳先から海に飛び込んだりもする人で、水泳が達者だった、とか。
東京大空襲と学童疎開。食糧難の闇市時代
(写真/秋山武雄撮影)
──その後、お父様が後を継がれます。第二次大戦が始まって、秋山さんは疎開なされたとか?
秋山:昭和20年の3月10日にここは大空襲がありまして。その後、私は2年生になったばかりで疎開することになりました。そもそもは昭和19年に政府の方針で学童疎開が定められてね。まぁ、戦争を長くやってると、「子供でもいつかは鉄砲玉に使える、まだ小さいウチに死んじゃ困る」ということでね。まずは4、5、6年が疎開に行ったんですよ。中学生になると、もういっぱしに国のお手伝いをしなきゃいけないっていわれていた時代ですから。
──大変な時代です……。
秋山:大空襲の後、「これは大変だ。1、2、3年も疎開させなきゃ」と。私自身も、ずっと栄養失調状態でしたしね。
──終戦後、疎開先にはご両親が迎えにいらっしゃった?
秋山:ええ、父が一人で迎えに来てくれました。迎えに来るといっても大変だったと思います。当時は鉄道の切符も配給制で、簡単には手に入らないんですよね。よっぽどの手立てがないと難しかっただろうと思います。よく切符を手に入れて迎えにきてくれたなと、後になって思いますよね。
──お父様も早く子供を迎えに行こうと必死だったんでしょうね。
秋山:食糧難でしたからね。とにかく食べるものがなくて。疎開先が宮城県の蔵王のふもとですけどね。どこ行っても食料がなくて、大変な思いをしましたよ。帰ってきてからがまた……統制経済の時代ですから、商売もできないしね。
昭和17、8年くらいからの統制経済時代は、国からの配給で飢えをしのいでいた、そんな時代ですよね。
──お父様がお店を再開される状況になったのはいつ頃でしょうか?
秋山:統制経済になっていてもね、やっぱり食っていかなきゃいけないんでね。私が小学校卒業したのが昭和25年ですから、22年頃かな……そのころから闇市で商売をするようになったんですよ。
闇でってことは違法なことですから。パン粉ひとつでも簡単には手に入らないわけですよね。パン粉を入手するために、進駐軍の方から手を回して闇の元締めが買ってくるルートがあったんですね。
──なるほど。
秋山:ある時こんな話がありましてね。そのパン粉屋がね、警察の手入れで捕まったんですよ。で、このパン粉をどこに売ってるんだ? ってんでウチに刑事が来て。私が表で遊んでる時に、2人の刑事がやってきて、ウチの父が連行されて蔵前警察署まで一緒に行ったおぼえがありますよ。「こんなこともう二度としちゃだめだぞ」みたいなことを刑事に言われて帰ってきましたね。だけどそんなことがあったって、そりゃ一回かぎりで済むような話じゃない(笑)。
──生きていかなければいけませんからね(笑)。
秋山:食っていくためだからね。魚なんかもそうでしたね。千葉県の船橋、あのあたりまで魚を買いに行くと、浅草橋の改札あたりで刑事が張っていて、捕まっちゃうんですよね。で、没収されちゃう。
──魚は米とかと違って日持ちしないだろうから見逃してほしいなぁ。
秋山:お米もそう、お米を入手するのは日暮里。あそこに行くと警察官が待ち伏せしていてね。慌てて米を放り出して逃げる日本人の姿をよく見かけましたよ。当時のニュース映像なんかを見ても、そういうのがよく流れますよね。そういう時代でしたよ。でもそれは、闇をかいくぐってでもやっていかないといけないから。
──う~む。
秋山:私は目にしていないけども、新橋駅前の闇市とかね。あれも当然違法だったんでしょうけど、取り締まりきれなかったんでしょうね。数が多すぎて。
私も小さかったからそれほど目にした訳ではないですけども。やっと昭和25年くらいになってからですかね。なんとなく(統制が)緩やかになってきたのは。徐々に商売ができるようになってきましたね。
「ああ、こんな風に写真になるんだ」
(写真/秋山武雄撮影)
──写真との出会いはいつ頃になりますか?
秋山:小学校のころからね、写真や映像的なことは好きだったんですよ。6年生くらいのころかな、小遣いで「ボルタ判」っていう、おもちゃみたいなカメラを買いましてね。写してもロクなものは写らないけど、それで撮影をしていました。
中学に入ると私の担任の先生が理科の先生だったんですね。そのクラスでアンケートをとるわけです。将来の夢とか、何が好きなのかとか。その時に、私は写真のことを書いたんでしょうね。そしたらその理科の先生も写真が好きな人でね。
──運命的な出会いですね。
秋山:当時、学校の先生も住宅難でしたから、学校の教室や理科室なんかに先生方も寝泊まりしていてね。ある日「秋山、あとで理科室に来い」と言われて、行ったわけです。そしたら、なんのことはない理科室に写真の引き伸ばし機があるんですよ。現像液や定着液の後始末をしてくれっていうんです。
──ちょっと手伝えと。
秋山:そんなわけで、理科室に自由に入れるようになって。先生の側にいると小さなフィルムを拡大して、引き伸ばしたり現像液につけたりすると、印画紙に像がでてくる。「ああ、こんな風に写真になるんだ」というのを目にしてね。そこで引き伸ばし機って、面白い機械だなと興味を持ったのが大きなきっかけです。
第一次カメラブームの時代
(写真/秋山武雄撮影)
秋山:それから中学を卒業しましてね。江東区にある都立第三商業っていうとこに入って3ヵ月ほどたった時、父のお店も順調に営業していて、出前持ちの若い衆が2人いたんですけど。
──はい。
秋山:そのうちの1人がまず辞めてね。残っていた若い衆に合図して、表の鍵を開けさせて夜中に泥棒に入ったわけですよ。
──え~っ!
秋山:当時ウチの父は組合と町会の会計をやっていてね。たいした金額じゃないんだけど、そういうお金がしまってあるところを当然若い衆は知っているわけですよね。それを狙って、泥棒に入ったんです。結果的に捕まったんだけど前科7犯とかいう男だったそうです。
──うわ~! それは……。
秋山:そしたら父がね、「もう他人を雇うのが怖くなった」と言うんです。それで、高校に通っている私に、いますぐ学校を辞めてウチを手伝えって。父も私が長男だから、ゆくゆくは後を継がせるつもりというのもあったんでしょうね。その時に、父に「じゃあ、写真の引き伸ばし機を買ってくれ」って条件を出したんですよ。
──私の地元でも、農家の息子が後を継ぐ条件で車を買ってもらうって奴が何人もいましたけど、近いものを感じますね。
秋山:ははは。そうですか。父が買ってきたのは当時9,000円くらいの引き伸ばし機だっようですね。日本橋に行く途中の室町3丁目に林商会っていうところがあって、そこで父が月賦で買ったんですよね。ちょうど昭和28年というのは第一次カメラブームの時代だったんですよ。ここらへんの旦那衆も、カメラを買ったりしていましたね。
──では、お店を手伝いながら写真を撮り始めたと。
秋山:お店では、私が出前をやってましたからね。出前のついでに旦那衆のフィルムも現像してあげて。旦那衆も、撮影したら現像に出さなきゃいけないでしょ。見よう見まねで当時の現像所の半額くらいの金額で請け負って。
当時のプリントサイズは名刺版が主力でしたよね。1枚10円くらいのところを5円くらいで。フィルム1本くらい撮ってあげると36枚×5~6円で、200円くらいになった。これがけっこういい稼ぎになってねえ。当時ウチの豚カツが、普通のカツが100円で、上カツで120円くらいのときですから。
──なんだか本業より儲かりそうな気がしますが。
秋山:昼のお店の仕事が終わってから、引き伸ばし機を使ってずいぶんやりました。当時私の小遣いが、あまりたいしたことなくて月500円。当時フィルム1本が120円くらいなんだけど、その現像の仕事は月に1,500円~2,000円くらいになるんですよ。それでまだ16、7歳だからタバコなんかも吸わないし、お金の使い道がないんでね。父が買ってくれた引き伸ばし機の月賦も、結局は自分で払い終えましたよ。
──すごい! よくできた息子さんじゃないですか。
秋山:それでお店に月賦を払いに行くと、カメラも売っている。今度は自分でカメラを買いましたよ。10,000円くらいのカメラだったかな。それからは、カメラに夢中になったよね。このカメラはどんな写り方をするのかなと思って、早起きしてはカメラを持って東京の街を撮って歩いたんですよ。それが今のこういう写真の原点なんですよね。
──趣味と実益の好循環ですね。
秋山:その後はカメラもどんどんとっかえひっかえして、買い換えました。そんな感じで写真を撮り続けてきましたね。
──なるほど。ちょうど世の中が豊かになっていくのと歩調を合わせるかのようですね。
秋山:そうですね。テレビの本放送が始まったのも昭和28年の2月ですしね。車も国民車っていって36万円くらいですよね。当時の車はまだ箱根の山を登り切らないんですよね。昭和35年くらいだったかなぁ……どこのメーカーかは記憶があいまいですが車がやっと登りきったって、大きなニュースになりましたから。発展途上の日本全体が、どんどん変わっていく時でしたね。
オムライスとハヤシライスは、祖父の代からの味
──『メシ通』としては当時の食事情も気になりますので、そのあたりもお聞きします。写真集に掲載されている当時のメニューには、オムライスがありませんね。
秋山:ああ、そういえば載っていませんね。よく気がつきましたね。
──途中からご主人がオムライスをメインにしたのかと思いまして。
秋山:いや、この頃にはもうお店で出していたはずですね。オムライスってのはオムレツにごはん。
洋子さん(以下・敬称略)初代のおじいちゃんのオムライスは、今のオムライスじゃなかったんです。初代のオムライスを食べたいっていうお客さんもいらっしゃって、私がお店に嫁いだころはまだ注文がありました。
秋山:ごはんの上にオムレツをのせるという形で、中華の天津飯みたいな感じだったんです。ソースも自分のところでウスターソースを作っていました。このソースをかけると、これが美味いんですよ。今の市販のソースじゃないんです。甘くてね。醤油をベースに、香辛料を10種類くらい入れて、あとは生姜やリンゴなんかも。それを煮込んで。
──うわぁ、お話を聞いてるだけで食べたくなるなぁ。
秋山:だけどそれもお客さんがだんだん市販のものに舌が慣れてきて、これだけ手間と時間をかけて作っても、わかってもらえないんじゃ意味ないねって、バカバカしくなってやめちゃった。それでも「今もあの味がもういちど食べたい」という方もいらっしゃるね。
洋子:あの頃の思い出と一緒に召し上がりたい、そんな感じみたいですね。
──ハヤシライスは独特の酸味があって美味しいですが、あれはどういった調味料が入っているのですか? こだわりどころというか……。
秋山:父が亡くなって私がお店を継いだときに、祖父のハヤシライスを食べてた人が2、3人いたんですよ。その人たちが、「おじいさんの味だね」って。そう言われてもこっちはわからないですよね。だって、そもそも祖父から料理を教わってないですからね。私が8つのときに亡くなっていますから、知りようもないですよね。だから、父親から祖父の味を継いでいたんでしょう。
──気がついたら代々の味を受け継いでいたというか。
秋山:私が24歳のときに父親が亡くなって。父親の味をこれからしっかり学んでいこうかなというときに死んじゃったもんだから。私もどう作ったらいいかなんて、全然わからないわけですよ。でも、こんな感じなんだろうなというところでやってきましたね。父からきっちり教わったりというのは全然ないんですよね。ただ父親の下で働いていたというだけで、どこにも修行にでていませんし。
──ハヤシライスの味は、お父様から自然と受け継いだ味なんですね。
秋山:ハヤシライスのことではっきり言えるのは、よくわからない料理だってことです。あんまり定義がはっきりしてないんですよね。だからね、食べ物であんまりウンチクを言うのは、私はあんまりね(笑)。お寿司屋さんでもあるでしょ。何から食べて、何で締めて……みたいなの。
──はい。ちょっと堅苦しく感じる場合もありますね。
秋山:そんなの、どう食べようといいじゃないかと思うんです。お客さんが食べてみて美味しければそれでいいんでね。ただ、こだわりというと日本のものしか使わないってことくらいかな。肉だって、脂が違いますからね。
──あの小麦粉を炒めた感じのカレーも最高でした。久しぶりに食べたけど、こういう懐かしい味わいのカレーも美味しいと思いました。
秋山:はっはっは。最近のインド風スパイスカレーも美味しいですけどね。
──その頃はカレー1杯で80円くらいでしょうか。
秋山:ええ。父親の頃はそうでした。
(写真/秋山武雄撮影)
──その後どのような感じで価格が上がっていったのでしょうか?
秋山:昭和32年頃かな? その頃だと、まだとんかつが200円いってなかったかな。とんかつライスが170円くらい。ごはんが20円か30円くらい。上がったのはどういう上がり方だったかなぁ……結婚したころだって、カツの値段はそんなあがってないよな?
洋子:昭和37、8年のオリンピックの前くらいから、値段が上がってきましたね。オリンピックの頃だから、労働者も大きな工事が始まったりするので、ごはんもみんなしっかり食べるんですよ、大盛りでね。サラリーマンの方よりも、肉体労働の方が多かったころですね。
秋山:そうか、(洋子さんが)子供をおぶってお店に出てた頃か。その頃はそういうお客さんが来てたんだよな。その後、切り替えが突然くるんですよ。というのはね、それまではウチも出前オンリーでした。ウチのが嫁いできたのが昭和38年ですけど、まだ出前が忙しい時代だった。一軒の家でカツが5枚だ10枚だって注文が入る時代でした。
洋子:この辺は従業員が住み込みでしたから。
──そうでしたか。
秋山:住み込みのお手伝いさんたちが沢山いたから、そのまかないでね。そこで、朝昼晩ごはんを作るわけですよ。だからまだお店でごはんを食べる習慣が、あまりなかったんだね。だからウチあたりの飲食店に来て食べるなんてことはまずなかったですね。お客さんはお店に1日3人来ればいい、という感じで。
──なるほど。
秋山:それがね、田中角栄の『列島改造論』くらいからですよ。みんなが個人で方々散らばっていって、それぞれ家を持つようになって。それからですよ、買い食いが始まって、外食のお店が成り立つようになったのは。本当に突然、そういう時代が来ましたよ。
洋子:その頃はまだ、核家族じゃなかったですからね。みんな3代くらいは一緒に住んでいましたから。出前もね、土日っていいますともう大変でしたよ(笑)。ほんとに出前持ちばかりでした。手におかもちを持ってね。そのうち世の中が核家族中心になってきますと、出前の注文もまた少なくなってきて。
秋山:うん。静かになってきたよね。バブルの頃かな。ウチのお店の形式なんかは、その切り替えがうまくできなかったの。だから狭いんですよ。
──たしかに席数は少ないですね。相席が必須というか。
秋山:出前なしでお店だけで稼ごうとしたら、もっと広くしてお店だけにしましたよ。そのへんの切り替えが悪かったから、こんなちっぽけなお店なの。
──いやいや。
秋山:それが今になって「それがいいんだよ」なんてお客さんに言われてね。そう言われてもまいったな、なんて感じでね。
──私らからすると、この雰囲気がいいんですけどね。
秋山:そういわれるんだけどねえ。1日に来るお客さんの半分も入れないから。もったいないなと思うよね、こちらとしては(笑)。お客さんもね「今日は入れた! ラッキーだ!」なんていうんですよ。昨日も入れなくて……みたいな。ずいぶん早くから来てる人もいますよ。
洋子:いつもね3人とか4人で入る人がいますから、なかなかお店に入れない人もいるんですよね。まとまって座るなんてできませんからね。空いているところに相席してもらう感じで。
秋山:こういう商売やってますと、ほんとに核家族というか、家族の形も変わって来ていると思いますよ。今だと、父親も母親も昼に働いていて。だけど、そのかわりにお孫さんをおじいちゃんやおばあちゃんが面倒をみたりしているわけでもなく。子供も大きくなったら家を出て、この街に住まなくなって、「ドーナッツ化現象」っていうのかな。街の夜の人口が減るという。この辺りもまさにそんな感じで。
──たしかにこの辺りは、夜は静かですよね。
秋山:夜は年寄りだけがいるという街になってきましたからね。今思うと、昔は街中に子供の声が聞こえてね。なにかあればみんなで助け合うという感じで。ウチなんかは幼稚園とか昼間、子供を迎えに行くことができませんから、近所の友達がかわりにに子供たちを連れてきてくれたりとか、お互いが助け合う気持ちがあったんですけど。今はもうね……。
──私の子供の頃くらいまではそんな雰囲気がまだありましたけども。
秋山:街のみんなで子供を育てる……みたいのがありました。でも今は、それぞれの家で窓をピシャッと閉じちゃってね。だんだん下町の温かみみたいなものが失われてきましたね。昔の子供は、よその家でも気にせずあがって、その家でしている仕事を見ていたし、そこでいろいろ覚えるから、大人たちも嫌がらないで一緒に遊んでくれましたよね。
3.11──東日本大震災と東京大空襲が重なってみえた
(写真/秋山武雄撮影)
秋山:でも、これまで生きてきて、3.11の地震はやっぱり忘れられないよね。あれをテレビで見たとき、津波で全部流されて白っぽい泥にまみれた街の姿を見てね。ああ、大変なことになったな……と。
──はい。私もいまだに目に焼き付いています。
秋山:その時にね、なんだかこの津波の跡地と東京大空襲のときの黒く焼けた跡地が、ダブって見えたんですよね。昭和の25、6年から写真を撮ってるけど、東京の街が立ち直っていくさまをずっと撮っていましたからね。
今は大変な状況だけれども、きっと今度も立ち直れるはずだと思って。いてもたってもいられず、撮りためていた写真を慌てて200枚くらいプリントアウトして、5月に銀座ニコンサロンに持って行ったんです。
──なるほど。なにかに突き動かされるように。
秋山:そうしたら「秋山さん、これ、すぐ写真展やりましょうよ」と言ってくださって。秋山武雄写真展「昭和三十年代 瞼、閉じれば東京セピア」を開催しました。もう大変な数の人が来てくださいました。銀座のニコンサロンに来場してくれた人数の記録としては、今でも破られていないそうです。
──すごい。来場された方々も何かを感じ取って押し寄せたんでしょうね。
秋山:それで、2日目くらいかな? 読売新聞の室長が飛んできましてね。「これ、どちらかで契約してるんでしょうか?」って。どことも契約してないって言ったら、ぜひウチでやらせてもらいたいってね。
いいですよって始めて、最初は1年くらいかなと思ってやっていたんだけど、気がついたらその連載も8年にもなっていて。それで一冊の写真集にまとめることになって。
小津映画の名カメラマンの画面作りに影響を受けた
(写真/秋山武雄撮影)
──あの本で拝見した、以前写真展を開いた時に写真の中に「自分の幼い頃のおかあさんを発見して、その場に泣き崩れた来場者がいた」というエピソードがとても印象に残っています。
秋山:ええ。あれは浦安の写真ですね。海苔干し場から出来上がった海苔を、その中年男性のお母さんが天秤棒で担いで運んでいるという姿の写真だったんですね。自分が見たことのないお母さんの働く姿を見て、「こんなに重労働をして、兄弟5人を大学にまで行かせてくれたんだ」と涙を流されていましたね。
──たまたま観に行った写真展で、予期せず自分が子供の頃懸命に働く母の姿を目の当たりにするなんて、どれほどの思いだったでしょうね。なんという巡り合わせ……。
秋山:浦安には、17歳くらいから写真を撮りにいくようになりました。ウチの父の友人がね、浦安からあさりとか佃煮を1週間に1回くらい売りにくるんですよ。私も写真に夢中になっているところだし、浦安ってとても面白いところだよって言うからね。私もどんなところだろうと行ってみましたよ。
──東京とはまた違う雰囲気でしたか?
秋山:行ってみたら、東京にはない潮の香りがして、なんとも言えない素朴な雰囲気でね。道路などのインフラは、当時で東京より5年くらい遅れていたんじゃないかな。特に浦安ってのは、陸の孤島っていうくらい交通の便がないところで、船で行くか、またはバスを乗り継ぎ乗り継ぎでいくかで、東京に出るまでが大変な場所でしたね。私は自転車で片道1時間半かけて通いました。それから5年くらい通いましたね。自分の中では、当時の浦安の風景はかなり撮りきったと思っています。
──こうして拝見していると、非常に資料性が高いですよね。
秋山:特に意識したわけではないんですがね。作品がまとまった数になってきて、そう言っていただくことが多くなりました。
▲秋山武雄写真集『わたしの東京物語』(BeeBooks/絶版)
──作品作りのうえで特に影響を受けた方はいらっしゃいますか?
秋山:はい。映画監督・小津安二郎さんのカメラマン、厚田雄春さん。
※厚田雄春(あつた ゆうはる:1905年1月1日~1992年12月7日)映画カメラマン。小津安二郎組の名カメラマンとして知られる。
──その方からはどのような影響を?
秋山:若い時分から可愛がっていただいていたから。写真ができると、持って行って見せるんです。すると、「武雄ちゃんは背が高いから、くれぐれもデフォルメには気をつけろよ」とか、映画っていうのは画面の歪みが禁じ手ですから、そうならなような裏技みたいなものを教えてくれましたね。
それから小津さんのことなんかもね。どういう理由で小津さんが『東京物語』みたいな映画を作られているのか、そういう気持ちみたいなものもね。
──自費出版の写真集のタイトルはそこから?
秋山:そう。タイトルに「わたしの〜」をつけてね(笑)。これなんかも、笠智衆(※りゅう ちしゅう、日本の俳優)がやっていたような画面ですよね。父親がカメラを持って、その三歩後ろを歩く娘……当時の日本の姿みたいな、ね。ちょうどふらふら歩いていたら撮れた1枚ですね。写真は頭で描けないからね。現場を歩かなきゃいけないから。
──そうですね。「その場に居合わせる運」みたいなものが必要なんでしょうね。
秋山:歩く方向と時間がピッタリ合うからこう撮れるわけで。映画の撮影では、監督が決めたカット以外に、カメラマンにまかせるような間をつなぐカットもかなりあるそうなんですね。
現場判断でいい画を撮っておくと、後で採用されることもある。それがカメラマン冥利だっていうお話も聞きました。私もとにかくいろいろな場面を撮影しましたが、その時にピンときていなくても、時代の移り変わりで、写真が別の意味やテーマになってくるということがありましたね。
──写真家と洋食屋の両方で時代に寄り添って歩んできた秋山さん。それぞれ本腰を入れて活動されているせいか、いまだに同一人物と知らずにいる方も多いそう。
秋山:一新亭を訪ねてきてくれるんだけど、写真家・秋山武雄と結びつかないわけですよ。「えっ。じゃあ秋山さんがフライパンふってるんですか?」なんていわれてね。経営だけやっていると思われていたり。近所で聞いたんだけど、このへんで写真をやってる人って秋山さんのことだったの? とかね。
▲店内に飾られている、和装の女性が一新亭の暖簾をくぐる姿が素敵な写真(写真/洋子さん撮影)
奥様の洋子さんも、アマチュア写真家として賞をとるほどの腕前。
仲良くお元気なお二人を見ていると、人生まだまだこれからと元気もいただけました。
▲オムライス メンチ付き(900円)
もちろん、取材のこの日もオムライスメンチ付きを完食!
ごちそうさまでした。
お店情報
一新亭(いっしんてい)
住所:東京都台東区浅草橋3-12-6
電話番号:03-3851-4029
営業時間:月曜日~金曜日11:30~14:30頃まで
定休日:土曜日、日曜日、祝日
※営業時間定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。
書いた人:BLObPUS
オリジナルキャラクターの怪獣フィギュア「BLObPUS(ブロッパス)」をリリースしたのをきっかけに活動開始。国内外のフィギュアイベントに参加しつつ中央線沿線を飲み歩く怪獣おじさん。蓄光素体にメタリックカラーを基調とした独特の色使いで彩色にも定評がある。
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November 27, 2019 at 04:30AM
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82歳の老舗洋食店店主であり写真家──66年間撮り続けた「東京の風景」 - メシ通
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